寺だより保管庫

寺だよりについて

 教行寺では、布教活動の一環として、1年間に4回、新聞の折り込みに「寺だより(見本)」を入れています。寺の行事の告知と共に、「愚僧独言」という短いエッセイを掲載しています。

 新聞の折り込みには取り扱いのガイドラインがあります。「愚僧独言」は、ガイドラインに沿ったものですから、当たり障りのないことを書いています。

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2015年5月

 坂村真民は熊本生まれの仏教詩人。戦後、朝鮮半島から引き揚げて愛媛県に移り住み、高校教師のかたわら、多くの詩を残した。2006年、97歳で逝去。
 彼の詩は、平易な言葉で綴られ解説を必要としない。例えば、こんな一節がある。

「二度とないこの人生を
いかに生きいかに死するか、
耳をかたむけることもなく
うかうかとして、
老いたる人の
いかに多きことぞ。」

 特に難しい言葉も言い回しもないが、それでも、彼の言葉は人の心に届き難い。自分のことだとは思わない人が多いから。「オレにはオレの考えがある」と思っている人が多いから。
 実際には、優れた思想家、哲学者、宗教家と、書物を通じて交流を重ねて、自分なりの死生観を鍛えてきた人は少ない。大抵は、聞きかじりの知識に独りよがりの解釈を加えて、自分の考えだと思い込んでいる。そんなものは「考え」ではなくて単なる「思いつき」なのだが、それを言うと、これまた大抵の人は怒るから、狡い坊主はにこにこしながら黙って聞いている。
 まあ、その坊主からして、自分が癌で手術を受けるまでは、結構いい加減に生きてきたなあと思っているから、おあいこ。

2015年3月

 一般には、神棚には榊(サカキ)、仏前には樒(シキミ、シキビ)と言い習わされているが、実際にはそれほど厳密な区別ではない。仏華にも榊を使う宗派がある。榊は、確かに古くから神事に使われてきたが、京都の愛宕神社では、今でも神事に樒を用いている。
 榊の語源は、人と神の境の木「境木」だといわれる。「栄木」「繁木」が語源だとする説もあるが、疑問視されている。  樒は、葉、茎、根のすべてに毒があり、特に実には強い毒性がある。樒の語源が「悪しき実」だと言われるのはこのためである。
 樒は独特の香りを持つので、水に差して香水として供えたり、乾燥させて香として使われてきた。弘法大師は、インドの青蓮華の代わりに密教の修法の際に樒を使ったという記録がある。樒を木偏に蜜と書くのは、これが由来だとされる。
 樒は比較的温暖な地に自生するので、東北などでは、あまり使われず、樒の代わりにヒサカキを墓前、仏前に供える。ヒサカキは榊に似ているが、葉にギザギザのあるのが特徴である。一説には、榊ではないので非榊と呼ばれるようになったとか。当寺でも、昔から、樒がなければヒサカキ(シャシャキと呼ぶ)を墓前に供えている。

2014年10月

 私は、岡山の受験校を経て東京の大学へ行った。多くの同級生も大都会の大学へ行き、その地で就職した。岡山では、卒業した大学に見合うだけの就職口が少ない。岡山に留まったのは、医者、公務員、家業の跡継ぎがほとんどだ。だから、高校の同窓会は、今も岡山本部と東京支部と関西支部で構成されている。
 このような状態は、岡山だけでなく、日本全国に共通しているはずだ。しかも、大学生に限らず、中央が地方の若者を集める仕組みは明治以来百年続いてきた。
 それでも、中央から地方へお金が配られていた時代には、人材を送り出す地方にもそれなりの利益があった。たとえ、土建屋経由の公共事業がほとんどでも、地方の経済は潤った。
 しかし、国の財政が逼迫して地方に回る金が減少すると、途端に地方は衰退し始めた。岡山に留まったり帰ってきたりして家業を継いだ同級生も、半分近くが会社や店をたたんだ。地方都市の商店街は、今やシャッター街と呼ばれている。
 ただ、悲観的になる必要はない。志ある者は、これまでも、そしてこれからも、自力で地方から中央へ攻め上ってくるだろう。新潟県柏崎市に生まれたブルボンは、その好例だ。今でも、デパートの地方物産展には、その地方の意欲的な商品が並んでいる。
 最近、地方の活性化に取り組んでいる建築家の安藤忠雄は、今、地方に足りないものは何かと問われて、人だと答えている。地方創生を言うならば、志を持つ若者が地方に留まれる仕組みを作ってもらいたいものだ。

2014年8月

 私が寺を継いだ35年前には、まだ、明治生まれの人が健在だった。今にして思えば、あの人達から、先の戦争にまつわる多くの話を聞けたのは、とても幸せなことだった。
 もちろん、『戦争を知らない若造』扱いされて、不愉快な思いをしたこともある。しかし、そういう人は、自分の経験を元に話すだけで、先の大戦について、自分なりに戦後も学び考え続けてきたわけではなかった。むしろ、自分なりの結論を出せないから、若者に当たり散らしているようにしか見えなかった。
 明治の人達から聞いてきた話は、私にとって財産だが、今更、誰かに伝えようとは思わない。所詮は又聞き。伝聞でしかない。それよりも、虚心坦懐に一つでも多くの証拠に基づく事実を積み重ねて、戦争について知ることの方が大切だ。そうしなければ、明白な証拠もないまま、伝聞だけで、売国奴が怪しげな談話でウソを積み上げかねない。
 私に多くの話をしてくれた明治の人達も、ほとんどお浄土に旅立たれた。若い頃の話をすると昔話になってしまう。それだけ、私も歳をとったということなのだろう。

2014年5月

 最近、珍名とも呼ぶべき奇妙な名前が増加している。大宙(てん)、月(あかり)、虹実(ななみ)等々。名付け親にはそれなりの言い分があるのだろうが、子供に不利益をもたらすことはあっても、良いことはない。私立小中学校の受験、就職活動は言うに及ばず、他の子供にからかわれることになる。
 吉田兼好は徒然草の中で、寺の名前を語った後で、「人の名も見慣れない文字を付けようとするのは益のないこと。何事も珍しいことを求め異説を好むのは、教養のない人がやることだ」と書いている。例えば、「希星」と書いて「きらら」、「絆星」と書いて「きら」と読ませたい親がいるようだが、「きらら」や「きら」というのは雲母のこと。忠臣蔵の仇役吉良上野介の吉良は、雲母の産出地に由来する地名だから意味があるのだ。余人が子供をウンモにして何がうれしいのやら。
 歌人の俵万智は、「覚えやすくて 感じよく 平凡すぎず 非凡すぎぬ名」が良いと歌った。名言である。訳あって「英麿」と名付けられた私は、この名前のせいで、子供時代から何度となく不愉快を経験してきた。その私が言う。子供のことを考えるなら、親の自己満足は捨てて、珍名は避けた方が良いと。

2014年3月

 アショカ王は、古代インド・マウリヤ朝の第3代国王。生年没年は不明だが、王位にあったのは、紀元前268年頃から232年頃だと言われている。インド史上、インド亜大陸を統一した最初にして最後の国王である。
 父ビンドゥサーラ王に疎まれて育ったようで、反乱軍鎮圧を命じられたときに、父である王から軍備も与えられなかったという逸話が残っている。親に嫌われて育った腹違いの弟ならグレて当然。ということで、父が亡くなると、後継者とされていた異母兄を倒して王位に就く。
 王位に就くと、自分を軽んじる官僚や自分を嫌う女官を、五百人ほども殺した。更に、インド亜大陸南部に勢力を張る宿敵カリンガ国を滅ぼし、十万人以上を殺したと、彼自身が磨崖に彫らせている。付いたあだ名が暴虐のアショカ。
 ところが、カリンガを征服し、インド亜大陸を統一してからは、一転して領土拡張主義を捨て、ダルマ(人倫の法)による統治に切り替える。仏教に帰依し、仏教以外の宗教も保護し、多くの仏塔を建立した。仏教伝道にも尽力し、スリランカ、ベトナム、タイなどに仏教を伝えている。
 世間ではあまり知られていないのに、坊主だけがこの王様に詳しいのは、そういう事情があるからだ。

2013年 発行

 これ以前の記事は、「寺だより 保管庫」にあります。


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